壇ノ浦に平家物語をたずねる

        
   私達「古典を読む会」のメンバーは4月26日、平家物語一番の見どころ 山口県下関市

  壇ノ浦 をたずねることになりました。一泊旅行です。 参加者は10名。平家物語 

       巻11 第百四句「壇の浦」はこの間習ったところで忘れっぽい私でも生々しく覚えている。      

      1185年(元暦2)源平が戦い、二位の尼が安徳天皇をいだきたてまつり、帯にて二とこ   
      
 ろ結びつけたてまつり・・・これは西方浄土へ」とて海にぞ沈みたまいける(平家物語から)

の場所をたずねるのです。ホテルも由緒正しい「みもすそ川別館」

    杉野先生はいつものように「壇ノ浦に平家物語をたずねるオリジナルツアー」を企画  してくださり、B5用紙5ページ分の資料を作って参加者に配ってくださった。

       2010年4月26日

       新大阪 9:59発ひかり553号の5号車に乗車。12:13 新下関着 在来線で下関まで乗り継

       ぎ、バスで赤間神宮前駅まで
山口県下関市阿弥陀町4−1にある赤間神宮を訪ねる。

       

      ◎赤間神宮

           
 JR下関からバスで15分、赤間神宮前下車すぐ。

       壇ノ浦の合戦で入水した安徳天皇を祀る。祖母二位の尼の「波の底にも都の候ふぞ」の言

       葉とともに海底に消えた幼帝の霊を慰めるかのように、海底の竜宮城をイメージして造ら

       れた水天門をくぐると正面に「赤間神宮」と大書された勅額を掲げた朱塗りの拝殿がある。

       勅額は有栖川熾仁親王の染筆によるもので、昭和60年安徳天皇八百年の式年大祭のと

       きに新しく掲げられた。菊の紋と青海波がデザインされている。(先生の資料から)

       「ひとつ言い忘れたこと、遅まきながらお伝えします」と大阪に帰ってから先生はメールで送

信してくださった。その内容は    

       
(明治9年 昭憲皇太后奉献)

     
  「今も猶袖こそぬるれわたつ海の龍のみやこのみやこおもへば」 この歌に因んで竜宮造

       り建造し、昭和33年完成したとある本にありました。ご参考までに・・・


       と書かれていた。

  ◎ 平家一門の墓

       宝物殿の裏手に平家一門の墓石群がある。いわゆる「七盛塚」で壇ノ浦で討ち死した七名の墓

       石である。一緒に二位の尼 とき子のものや小宰相の局のものと伝えられるものもある。ほかにも     
       相当数の墓石や供養塔が並んでいる。これら塚群は天明年間に土地の人が散在していた一門

       の墓をここに集めたのだという。(先生の資料から)
       

       前列には平有盛、清経、資盛、教経、径盛、知盛、教盛の墓。知盛の墓石が一番摩滅していた。
      
○ 芳一堂

       平家一門の墓の右手に簡素な祠がある。四弦の琵琶を抱えた耳無し芳一の像が安置されている。

 ○ 虚子の句碑

       七盛塚右手にある  「七盛の墓包み降る椎の露」

       ○ 安徳天皇阿弥陀寺陵

       赤間神宮の西側に隣接して陵墓がある( 先生の資料から)

       宝物館

       今日は宝物館が100円で一般公開していた。入った中央に安徳天皇像が安置されている。

       源平合戦の絵を描いた屏風や敦盛の笛、平家物語の本全20冊が展示されていた。

 ◎ 壇ノ浦古戦場の址

       赤間神宮前の国道を海沿いに東北へ約一キロ行ったところにみもすそ川の赤い欄干

       がある。その下を川が流れ、1画がみもすそ川公園となっている。石碑がいくつかある。

   ○ 「壇ノ浦古戦場の址」

  ○ 「安徳帝入水之処」

                ○ 「みもすそ川碑」    (先生の資料から)
 

       公園前に広がる海は関門海峡の一番狭まったところで、潮の流れが速く、潮流の変化が激しい

       海の難所と観光ガイドブックに書いてある。「日本史の歴史を刻む関門海峡」のパネルがあった。

       パネルには

        西へ東へと一日4回、その流れの向きをかえる関門海峡。せまいところでは両岸の幅は

      700mあまりで潮流の速度は、最高で約10ノット(時速18キロ)にもなります。また瀬戸

      内海の入り口に位置する地理条件から昔も今も交通の要綱で、日本の歴史を刻む舞台と

      なっています。

        寿永4年(1185)三月二十四日、平知盛を大将とした平家と、源義経ひきいる源氏が

      この壇ノ浦を舞台 に合戦をしました。当初は平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに

      変わりはじめると源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められました。最期を覚悟した平

      知盛がその旨を一門に伝えると、二位の尼は当時八才の安徳天皇を抱いて入水。知盛

      も後を追って海峡に身を投じ平家一門は滅亡。日本の政治は貴族から 幕府による武家

      政治へと移行していきました。なお、この戦において義経は平教経の攻撃を船から船へ

      と飛び移ってかわし、いわゆる「八艘と飛び」を見せたといわれています

       と書かれていた。 

 左写真は二位の尼が

  今ぞ知るみもすそ川のおんながれ

          波の下にも都ありとは

 と詠まれて、8歳の安徳天皇と共に海に

 沈まれた場所

       先生をはじめみんなは「この海が平家の赤旗や赤印で真っ赤になったのねえ」と言い合う。

       「龍田山のもみじの嵐に散るがごとし。なぎさに寄する白波も薄紅にぞなりにける」

                                             (以上平家物語原文から)

       平知盛(1152〜1185)

        平知盛は清盛の4男で、兄宗盛のすぐ下の弟。平家一門の中にあっては武勇にすぐれた

       人物と知られる。父清盛亡き後、平家の総師となった兄宗盛を補佐した。冷静な頭脳と確

       固たる意志、指揮官としての才能を持ち合わせ、男らしい潔さを持った人。ヒーローとして

       華々しい活躍は反旗を翻した頼政の反乱を起こしたとき、弟の重衡とともにこれを鎮圧した。

       平家物語では無能で、臆病な2代目として、思いっきりネガティブに描かれている宗盛に

       比べて、有能な知盛として描かれている。安徳天皇と二位殿の入水を見届け、教盛、経盛

       兄弟、小松の三位中将資盛、少将有盛、左馬頭行盛らが手に手を取って海に沈まれ、能登

       の前司教経が安芸の太郎 次郎を両脇に挟んで入水した。これを見て、新中納言知盛は

       「今は見るべきことは見はてつ。ありとてもなにかせん」とかねて誓い合った伊賀の平

       内左衛門家長とともに鎧を二着ずつ着て入水した。平家物語の上部注釈には

       「今は見るべきことは見はてつ」と言って悠揚と海に入った知盛の眼は何を見はてたのか・・

       教経が豪快な入水を遂げたとき、知盛は壇ノ浦の結末を、平家滅亡の全容を、さらにそれ

       は一門の栄枯盛衰の歴史の一切の経過を見果てたのであった。

       
       

       壇ノ浦から火の山までのロープウエイは約4分。火の山は標高268m。関門屈指の

       ビューポイント。関門海峡や巌流島を眼下に見ることができた。緑が目にしみるように美しい。



                 

  ◎ 平家一杯の水   

古戦場址からさらに海岸沿いに約1km歩くと海際に石で囲った

       井戸がある。干潮時には真水が出るが、満潮時には海水になるという。敗れて岸にたどり着

       いた平家の軍兵が喉の渇きに耐えかねてこの水を夢中で飲んだが、二杯目を口にしたとき

       には塩水に変わっていたため、命を落としたと言われている。一杯でとめた者のみ助かった

       ところからこの名があるという。(先生の資料から)

       ロープウエイで下に降り、海岸伝いに「平家一杯の水」のところまで歩いた。普段の運動不足が

       祟って足も腰も弱く敗軍(平家)の兵のようなわたし。トキちゃんも同じ状態で、ふたりはモクモ

       クと歩いた。マラソンでどんどん抜かれているのをよく見るが、私達もどんどん抜かれ、一番後ろ

       になり、皆から離されて行く。やっと石で囲った井戸のところまでたどり着いた。一杯の水を飲む

       敗軍の兵士の気持ちがよくわかった。

       私達ふたりがもう一歩も歩けない と察したトミコさんは宿に迎えのクルマを頼んでくれた。

       16:50「みもすそ川別館」に着いた。トキちゃんとトミコさんとわたしの三人のお部屋はひろ

       びろとしていてほっとした。トミコさんに彼女の好きなアルベール・カミユ(1913〜1960)の詩

       を見せてもらった。

私の前を歩かないでください

    ついて行かないかも知れないから

 後ろを歩くのもやめてください

        あなたを置いていってしまうかもしれない

一緒に並んで歩いてください

               いい友達でいてください    (アルベール・カミユ)


       夕食までにみんなは塩湯に入られたという。ごはんまでにお風呂という俊敏な動作はムリ。

       私達3人は温泉は後にして夕食の膳をかこんだ。

       夕食は豪華。お酒は先生がこの前 ここにいらっしゃったときに召し上がった「みもすそ

       川」をいただく。このホテルのおかみさんは「以前 白髪のおばあさんが来られましてね

        『ここは平家の魂がみちみちていますよ。これからよく繁盛します』と言われましたの。

       お陰様でこのホテルはよくはやっています」と言われた。

       みんなはご馳走に舌鼓をうち、お酒も入って、口々に、この間習った平家物語 壇ノ浦に

       ついて話し合う。

       「わたしは平家物語では男らしい知盛が一番好き!!」と言うと寺本さんは「知盛は平家

       最期だとわかったときに『珍しき東男こそ御覧ぜんずらめ・・と女の人に言ったのよ。女性蔑

       視だわ・・』と反対の意見。トミコさんは「知盛は女性蔑視ではなく、女性に未来を託したの

       ではないかと思うわ。でもわたしは頼政が好き」 先生は「平家物語では、宗盛は悪く描か

       れているけれど、子供のことを想う優しい人ですねえ」と言われた。

       光明石温泉で疲れを癒す。お部屋からライトアップした関門海峡を見る。平家の魂がみちみ

       ちているお部屋でぐっすり眠った。


     4月27日

       生憎の雨。 みもすそ川から対岸の門司めかりまで関門トンネル人道を歩く。この歩行者用

       海底トンネルは長さ780mで世界的にも珍しい。9:30 門司側人道口に着いた。

和布刈神社

       関門トンネルの門司側出口を出た所が神社の裏手に当たる。毎年一月一日に和布

       刈神事が行われるので有名。大晦日の夜、神官が衣冠をつけ、剣をつるし、鎌を持ち、

       松明を掲げて海に入り、和布を採って神前に供えるもので、今も行われている。台地

       一帯は今、公園になっているがこのあたり、平知盛が城を築いたところと伝えられている。

                                    (先生の資料から)

        三井倶楽部でコーヒータイム。レトロな雰囲気。門司駅から小倉に乗り継ぎ、新大阪まで。

 

       
      「壇ノ浦に平家をたずねる」旅も充実した、素晴らしい一泊旅行であった。

       壇ノ浦の流れを見て、元暦2年3月24日の合戦を想う。

       まだ八歳の安徳天皇に「波の底にも都のさぶろうぞ」とて海にぞ沈みたまいける。あわれ

       なるかや、無常の春の風、花の姿をさそいたてまつる。かなしきかなや分段の荒波に龍

       顔を沈みたてまつる。殿を長正殿となぞらへ、門を不老門とことよせしに、十歳にだにも

       満たせ給わで、雲上の龍下って海底の魚とならせ給う・・・という平家物語の名文が浮か

       んでくる。 平家物語も終章に近づき、大きな深い物語なんだ、とつくづく感じた。